フォードが打倒フェラーリを掲げ、威信をかけて製作し、1966年のル・マン24を制したのがフォードGT40です。
打倒フェラーリ
1960年代のル・マン24においてフェラーリは無敵の存在でした。圧倒的な速さと強さを持ち勝利を重ねていきます。
しかし、台所事情は火の車。レースでの勝利をいかして車を売るというビジネスモデルはうまくいかず資金繰りに行き詰りました。
そこで、資本提携を模索していた中、手を挙げたのがフォードでした。巨大な自動車会社であったフォードでしたが、ラインナップにスポーツカーがなかったのです。
新しい世代のために車のスポーティーさをアピールする必要があったため、実績のあるフェラーリを傘下に納めようとしました。
フェラーリは資金を、フォードはブランドイメージを手に入れられるウィンウィンの契約で、契約書にサインをするまで話がまとまりかけましたが、レースのマネジメントで最終決定権はフォードが持つという一文にフェラーリ側が反発します。
結果、交渉は決裂してしまいました。事の次第を聞いたフォード社長のヘンリー2世も激昂。そこで彼はル・マン24でフェラーリに勝つためにエンジニアとドライバーを集めるのでした。
1964年からル・マン24に出場
打倒フェラーリで1964年のル・マン24に乗り込んだフォード。
その年に完成したばかりで、たった1レースしか経験していないのにもかかわらず、本戦では3台のGT40を用意しました。ドライバーにはF1ドライバーを擁し、予選でも好成績を残します。
しかし、本戦が始まる前に3台ともメカニカルトラブルによってリタイア。優勝はフェラーリに奪われてしまいます。
続く1965年フォードは物量作戦を敢行し、合計6台のGT40で出場することになりました。ドライバーも実績のあるF1ドライバーを擁します。
その期待に応え、ポールポジションを獲得しますが、決勝でまたもやメカニカルトラブルでリタイア。結局6台すべてリタイアしてしまいました。
そして、運命の1966年。フォードは計13台という体制でル・マン24に挑みます。
対するフェラーリもニューマシンである330P3を用意し待ち構えますが、労働争議の影響で開発・熟成が遅れ、エースドライバーが離脱するなど盤石ではありませんでした。
レースではフォードの1-2-3フィニッシュで勝利。フォードは悲願を達成します。
翌1967年は2位のフェラーリに5週差をつける独走で優勝しました。
この結果に満足したフォードは、翌年からレギュレーションが変更されることもあって、ワークス活動の終了を宣言したのです。